■「ここじゃないどこかに行きたい」居場所難民だった10代
私は札幌市南区の郊外で育ちました。
母親からは安易に家族のことは話すなと言われているのですが、私という人を理解してもらうために大事なエピソードなので話しますね。
父親は、私が生まれる前からある病気にかかっていました。脳腫瘍です。当時は不治の病と言われていました。でも、両親は私と弟を産みました。きっと治ると信じていたのです。私たちに未来をかけたのだと思います。
父は私が小学校5年生の頃に亡くなりました。最後に、ものすごく強く私の手を握りしめました。あの手の強さをずっと覚えています。その日から、私達は母子家庭になりました。多感な時期に父を亡くしたことは私の人生において大きな出来事でした。
もう1つ。親父が亡くなった1985年は私の人生にとって大きな年でした。私の目の前に人生における最低の人物が現れたのです。担任の先生でした。彼は、「お前は母子家庭の長男の割には、自覚が足りない」とみんなの前で私を怒鳴りつけ、何度も殴りました。それまでは神童と言われるほど、成績が良く、勉強が大好きだったのですが、それ以来、成績が低迷し、学校が嫌になりました。
小学校を卒業した時、「あぁ、これでこのくだらない人間とおさらばできるのだ」と思い、この上なく、解き放たれた気分になりました。
中学校に入学した途端、私が戸惑ったのは制服でした。幼稚園でかっぽう着を着た瞬間、脱ぎたくなったのですが、中学校の制服も同様でした。とにかく、画一化したことが大嫌いだったのです。その時、札幌に制服がなくても通える高校があることを知りました。札幌南高校、通称「南高」でした。同時に、南高は札幌で最も難しい高校の一つでした。しかし、どうしても私服の高校、自由な高校である南高に行きたいと思い、珍しく、勉強を頑張るようになりました。毎日、死に物狂いで予習、復習をしました。気づけば、成績は学年で1番になっていました。
私の心の糧となったのは、小学校時代から聴き始めたロックでした。お小遣いの許す限り、音楽のCDを買ったり、借りたりして聴き続けたり、深夜の音楽番組を録画して聴くようになったのでした。特に私が大好きだったのは、日本を代表するヘビーメタルバンド、LOUDNESSでした。彼らは日本人のバンドで初めてマジソン・スクエア・ガーデンのステージに立ち、しかもビルボード誌でトップ100入りしたのでした。コープさっぽろ藤野店の書籍売り場で、いつも彼らのインタビューを読み、プロ意識に感動したのでした。彼らは凄まじいまでに、楽曲作りと演奏にこだわっていて、世界レベルを目指した、高い視点を持っていたのでした。ボーカルの二井原実さんの書いた自伝『ロックンロール・ジプシー』(JICC出版局 現・宝島社)を読み、彼らが全米をツアーする様子を読み、さらに当時の北海道厚生年金会館で中学校2年の夏にライブを観てますます虜になりました。彼らの発言から、世界を目指そう、成長しようという欲がわいてきたのでした。そして、この頃からまずは内地に出ようという気持ちが自分の中で高まってきたのでした。ここじゃないどこかへ行きたい。もっと大きく、もっと高く、自分は羽ばたきたいと思ったのです。
制服を早く脱ぎたいと思ったり、部活動での厳しい上下関係などに悩みつつも、充実した中学校生活は終わり、念願の南高にも無事合格し、新しい生活が始まったのでした。
憧れの南高進学は自分にとっては夢のような出来事でした。しかし、入学してすぐに、夢は打ち砕かれます。冷静に振り返るならば、苦いことだらけの3年間でした。青春というのはそういうものなのですが。
まず、高校に入学した瞬間に、所詮、私は田舎の優等生なのだということに気づきました。周りには、いつも遊んでいる雰囲気を醸し出しつつも、勉強ができる人ばかりでした。自由な高校というのは残酷なもので、今まで気付かなかったことがどんどん可視化されていきます。世の中にはとんでもなく優秀な人がいるということ、さらには、金持ちの子供と言われる人たちがいるということに気づきました。勉強の内容も急に難しくなり、少し予習復習をサボるとあっという間についていけなくなりました。気づけば劣等生になってしまいました。
そんな私は、音楽と読書に没頭する日々を送ります。中3から始めたベースを演奏し、決して上手ではないですがバンドを組んでみたり、お小遣いの許すかぎり、CDを借りて聴き漁りました。図書館にある岩波新書や小説、社会学の本、ルポルタージュを左から右に読みあさったりもしました。授業中も寝るか、読書をするかという日々を送っていました。音楽と読書に感謝しているのは、世の中を多面的に見られるようになったことです。薄々は気づいていましたが、テレビや新聞が伝えることは決して真実ではないことに気づいたのでした。自分の眼で本当のことを確かめること、自分の頭で考えることをしなければ、恐ろしいことになることに気づいたのでした。
私服で通える環境になったものの、自由というのは楽ではないことに気づきました。受験勉強という画一的な行動は、やはり自分を苦しめました。「こんなことをしていたらバカになる」そう思い、受験勉強はできるだけせず、最短距離で大学に行きたいと思いました。受験勉強はしたくないのですが、勉強はしたかったのです。
成績は決してよくないのに、自分は絶対、内地に出たいと思うようになりました。読書に明け暮れた中で、どうしても社会学を学びたいと考えました。そして、社会学を学ぶなら、一橋大学社会学部だと思ったのです。もちろん、日本でトップクラスの大学だということや、自分の成績では普通に考えると無理だろうということもよく分かっていました。
ただ、そのころの私は、読書と音楽を通じて、この海の向こうには大きな世界が広がっていること、そして、札幌の自由でありつつも、妙に閉鎖的で、実は保守的な部分に耐え切れない状態でした。南高の時に感じた、尾崎豊の言うところの「仕組まれた自由」ではなく、全く私のことを知る人がいない空間で、自由を究めたかったのです。仕送りや奨学金に頼るとはいえ、自分で自分を支えて、一人で立ちたかったのです。
自分に残された時間を確認した上で、最短距離で合格するために猛勉強しました。その時、倫理・政治・経済の先生には論述式問題の添削をお願いしたのですが、彼と過ごした日々は実に宝物の日々でした。毎週、先生のいる部屋に行き、難しい文章を書き、アドバイスをもらうことを繰り返したわけですが、これは受験勉強の中で数少ない、意味のある時間だと感じたのでした。
努力の結果、私は無事に一橋大学社会学部に現役で合格することができました。夢に描いていた、内地に出るということを勝ち取ることが出来たのでした。
結局、私は何故、内地に出たかったのでしょう?もっと成長したい、日本の真ん中で世の中の本当を見てみたい、もっともっと視野を広げたい、そんな衝動だったと思っています。さらに言うならば、周りの人に感じた閉鎖的な視点、価値観に耐えられなくなったとも言えます。南高→北大→道内の大企業という札幌エリートにもなりたくなかったのです。この先もずっとじょうてつバスに乗って都心に通う日々にドキドキしなくなったのです。青春の閉塞感に耐えられなくなったのです。今思うと、「ここじゃないどこかに行きたい」という衝動以外の何ものでもなかったようにも思いますが。
ここじゃないどこかに行きたい。これが自分を衝き動かしたものです。
皆さん、青春って楽しくないですよね?そう、青春は美しいと誰もが言う。そんなのは大嘘です。後から振り返ると美しいのであって、苦しくて辛い時代ですよ。青春という字を見つめてみてください。横棒が多いですよね?これは、青春というのは、乗り越えていく壁がいっぱいあるからなのですよ。
皆さんもきっと先が見えなくて悩んでいると思う。でも、そこから逃げないで欲しいんです。ぜひ、皆さんはいっぱい「負ける」ことを覚えて欲しい。負けて、這い上がるから成長できるんですよ。
■大学は楽しくない。だから楽しむ。
1993年3月下旬のある日、私は札幌駅のホームに立っていました。家族と親戚が見送る中、北斗星に乗って私は内地へと向かったのでした。今思うと、航空券の格安料金でもあまり変わらなかったような気もしますが、何故か私は北斗星を選んだのでした。
上野の駅に降り、電車を乗り継いで進み、不動産屋で家のカギをもらい、アパートの部屋を開けた瞬間の感動を忘れられません。あぁ、ついに内地にやってきて、自由を手に入れたのだ、と。そして、桜舞う国立(くにたち)の街で、入学式に参加し、新しい生活に期待で胸がいっぱいでした。
ただ、大学もまた、期待通りの環境ではありませんでした。私にとってはやっとの思いで入学し、第一志望だった一橋大学ですが、周りは東大や慶応に落ちた人だらけ。講義中に隣の席に座った友人が、東大の赤本を解いていたのには愕然としました。高校に入った時にそうだったように、大学にはより自分より賢い人と、より金持ちな人がいました。1年生の時は面白いくらいに内向的で、積極的になれず、一方で講義をサボる勇気もわかず、悶々と過ごしていました。
このままではいけないと思った私は、徹底的に行動の量を増やすことにこだわります。まず、1年生が終わる春休みに、毎日数本の映画を観ることに取り組みました。これだけたくさんの映画を観ることにより、人生の多様性に気づきました。そして、一人で映画を観る、この暗い部屋から出なくてはと思いました。
大学2年になり、自分に負荷をかけることを意識しました。ゼミナールに2つ入り、凄まじい量の課題を毎週こなしました。一方、サークルでも幹部になり、アルバイトの数も増やしました。この多くのことを掛け持ちし、行動の量を増やすことで、考えも前向きになり、気づけば周りの見る目も変わり、さらには前向きで優秀な友達が集まってきました。
そして、たまたま履修していた一般教養の講義で素晴らしい先生と出会いました。その先生はハーバードで教えていた方です。彼の当たり前基準は、凄まじく高かったのです。商学部だったのですが、どうしてもこの人のもとで学びたいと思い、試験を受けて、商学部に転学部しました。社会学を学びたくて、一橋大学に入学したのに、その道をいとも簡単に捨ててしまったのでした。
商学部では、前提となる知識が乏しい中、死に物狂いで勉強しました。その先生のゼミは、大学の中でも最も厳しいゼミの一つでした。本当に、週に何日徹夜したのでしょう。そして、サークルでも会長となり、まさによく学び、よく遊ぶ日々が続きました。
大学生活最後の日のことを覚えています。明日から出社なのに、何か落ち着かず、留学、休学のためにもう1年大学に残る友人2人と国立のバーで飲み明かしました。自宅に帰る時に、国立のサクラがバーっと散って、「ああ、俺の青春は終わるんだ」と思いました。
次の日から、私は形式的には社会人になりました。
はっきり言いますが、大学は楽しい場所ではありません。受身ではダメですね。楽しいじゃなくて、楽しむというスタンスが大切なのです。皆さんには充実した大学生活を送るために、楽しむことをサボらないで欲しいのです。
■大人たちの包帯のようなウソに騙されるな
がっかりするかも知れませんが、皆さんにお伝えしたいことがあります。
それは、皆さんは、皆さんの親や、今の学校生活ほど幸せになれない可能性があるということです。この国はいまや、絶望の国です。それなりに幸せだけれども、多くの人が未来に希望を見いだせません。
だから、若者は強くなるか、楽しむかしかないのです。
大人たちは包帯のようなウソをつきます。そんなウソに騙されないように、賢くならないといけないのです。自分の眼で見て、自分の頭で考えて、自分の言葉で考えることが大事です。
そのために、多様なメディアに接しつつ、「本当はどうなのか?」と考えるクセをつけてください。
英語を身につける。これも大事なことですが、これは俗にいうグローバル人材になるためだけではありません。英語が分かると、沢山の情報にアクセスできます。海外の情報にふれて、世の中の本当に気づいて欲しいのです。
立命館慶祥中学校・高等学校の素晴らしいことの一つは、10代のうちから海外体験をたくさんできるということです。そう、この国の中だけで考えてはいけません。ましてや他の国を見下してはいけません。多様な視点を持つこと、これが大事です。
大学に入ったら、ぜひどんどん海外旅行に行ってほしい。アルバイトをいっぱいしてでも、あるいは親に借金をしてでも行くべきです。私が大学時代で後悔しているのは、海外旅行に2回しか行かなかったことです。
そして、留学をしてください。世の中はなんでも就活を便利な悪者にして、就活のせいで留学できないと言う人がいますが、大学職員に聞いても留学して就活で苦労した人はあまりいないとのことです。これもまた真実です。
グローバル人材という言葉があふれていますけど、これは英語ができる人材だと勘違いされているとしたならば、非常に残念だと思います。グローバル人材とは、現地にjump inできる人材であります。さらには、日本の歴史と文化について熱く語れる人材です。
日本人はなぜ国際社会で信用されないか?それは、日本の歴史や文化を語れないことです。もちろん、日本においては歴史上のタブーがあると言われています。ただ、それは他の国の方は意外に気にしていない。だから、皆さんは歴史と文化について熱く語れる人になって欲しいのです。
10代のうちに、そして大学時代にするべきことがあります。
1つは勉強をすることです。本当はどうなんだろう?という視点を忘れずに、一生懸命勉強してください。大学に入ったら、単位を取るのではなく、Aを取ってください。
次に、勉強と近いですけど、読書をしてください。本をむさぼり読んで欲しい。社会人になったら、どうせくだらないビジネス書しか読まないんですよ。これは実にもったいないことだと思います。この学校の図書館は大変充実していると感じました。たくさん読んでください。
もう1つ。旅にでましょう。旅を大切にしてください。旅先では必ず、非日常を感じることでしょう。それは、その場所に強い日常があるからなのです。この異なる地に行き、文化とふれあう。極めて大事な体験です。
そして皆さん、恋をしましょう。大学の後半以降はついつい結婚のことを考えたり、いろいろ難しいことがあるものです。「だって好きなんだもん」こういう無邪気な気持ちで恋愛できるのは10代、そして学生の特権です。
ぜひ、何かに夢中になり、熱中してください。一晩かかっても語りつくせないくらいの、そんな体験をして欲しいと思います。
負けることを恐れないように。いっぱい、負けて欲しい。勝負しないのは最低です。負けた経験があるから、前にすすめるのです。
皆さんは残念な札幌エリートになって欲しくない。札南→北大→北電や道庁なんていうモノカルチャーな進路は実にくだらないと感じ、私は内地に出ました。もちろん、そういう人生を歩んでいる人を否定はしません。でも、皆さんには自分の可能性にかけて欲しいし、多様性を認めて欲しいのです。
将来は札幌に戻ってきて、内地で経験を還元して欲しいのです。これはまさに、高校時代に恩師から学んだことです。私は本の中で、こういう人材を鮭型人材と呼びました。私の高校時代の仲間はそんな人だらけです。ぜひ、北海道から、札幌から、世の中を変えていってほしい。
異なる者とどんどんふれあい、自分の考えを磨いてください。
今日、ここにきた皆さんの中から、次の時代のリーダーが生まれたらいいなって思っています。
札幌の街はいつも、私に語りかけます。昨日も、先生方と飲んで、その後、友人のドラマーのLIVEを観に、狸小路を歩いていたのです。狸小路はいつも私に語りかけるんです。あのころの自分とすれ違うような気がするんです。中川ライター店でプラモデルをじっと眺めていた自分、キクヤ楽器でベースをずっと見つめていた自分とすれちがったんです、昨日。
いつもこう問いかけられるのです。
「あのころの、気持ちは、今も生きているのかい?」
その度に私は心の中でこう答えるのです。
「大丈夫、ちゃんとあるよ」
ご清聴ありがとうございました。
その先へ、前に進みましょう。
— 試みの水平線 : 『札幌市民のための16歳からのキャリア論』立命館慶祥中学校・高等学校での講演抄録